こんにちは。BeBRAVE.Sビーブレイブエスの明正明美(みょうしょうあけみ)です。
沖縄を除く日本各地が大寒波に襲われています。氷点下が続くなんて、暖冬が当たり前となって以来珍しいことです。水道管が破裂しないようみなさん注意されています。お話を聞いたり、SNSなどを見て思ったのは、年配の方と若い方では対策に違いがあることです。
年配の方は水をどこか一か所ほんの少しでも出しっぱなしにしておくという方法、若い方は水道管を布などでぐるぐる巻きにして保護するやり方をしています。水道管保護のほうが水も無駄にならず、かつ、成功率が高いようです。
北陸地方は積雪はそれほどでもありませんが、凍結がすごいので、みなさん十分お気をつけください。
さて、きょうは18~19世紀のフランスの作家ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル(悲惨な、哀れな人々)」についてお話したいと思います。
「ああ無情」「少女コゼット」「ジャン・バルジャン物語」などのタイトルで子ども向けの本・ダイレクト版が多く出ていますので、ストーリーは多くの方がご存じだと思います。10年ほど前に映画が大ヒットしました。(コゼットの母親ファンチーヌを、プラダを着た悪魔のアン・ハサウェイが演じていました。)
私は子ども向けも含め、何度か読んでおり、主人公のジャン・バルジャンと少女コゼット、ジャン・バルジャンを目覚めさせた三リエル司教、ジャン・バルジャンを執拗に追う警官のジャベールが印象に残っています。というか、それ以外の登場人物のことはあまり覚えていません。トルストイの「戦争と平和」ほどではありませんが、登場人物は非常に多いのです。別の角度からこの本を再読するきっかけができました。
「若き日の読書」という本で、レ・ミゼラブルが取り上げられており、司教三リエルやジャン・バルジャン、少女コゼットの母親ファンチーヌといった、他者に献身的に尽し、愛の支援をおくる人たちと対照をなす者として、宿屋の主人テナルディエが出ていました。
コゼットの母ファンチーヌは、宿屋の主人テナルディエ夫婦にコゼットを預かってもらい、工場で働いたお金を送っていました。病気だから多くお金を送れと言われれば、娼婦となってでもお金を工面しました。しかし、テナルディエは送られてきたお金は着服し、コゼットを邪険に扱い、同じ年ごろの自分の娘を、目に入れても痛くないほどにかわいがるのです。
ジャン・バルジャンらとテナルディエ、この二つの魂はまったく異質な光を放っている。一方は真昼の太陽のようで、他方は奈落の闇の色である。ジャン・バルジャンらは良心の結晶、テナルディエは魔性の顕現である。
ジャン・バルジャンらのような高潔な人間と、テナルディエのような、低俗な身勝手な人間がいるというのではなく、高潔さも低俗・身勝手さも、誰もが持つ人間としての傾向性だと言っているのではないかと思います。
どちらの人間性を開花させていくのか。
環境とか、他の誰かではなく、自分自身の問題だと思います。
この作品の中で、私がもっとも心を寄せるのは、コゼットの母ファンチーヌです。200年以上も前の異国の話ですが、若い女が、明るく希望に満ちて無防備に喜び、気づけば地獄の底にいるという、自分でもどうしてそうなってしまったのかわからない、そんな絶望の中で死んでいく女性が他人事とは思えません。死期は異なっても、時代は異なっても、生活レベルは異なっても、今も多くの女性が、無知と無防備を後悔して、絶望の淵にいます。賢明に生きる、それは持てる者が言うほど容易いことではないと思うのです。
「二度読む価値のない本は、一度も読むに値しない」という名著の定義があります。
レ・ミゼラブルは分厚い文庫で5冊以上にもなりますが、生涯をかけて何度も読む価値のある名著です。
ぜひ、手に取ってみてください。最初の数ページだけでも読む価値はあります。どの巻のどのページを読んでもなにかしらの感慨があります。ストーリーと関係ないような描写でもです。