弱者なんて人はいません。尊厳あるところに弱者なしです。

こんにちは。BeBRAVE.Sの代表 明正明美(みょうしょうあけみ)です

突然ですが…

私は弱者という言葉が好きではありません!

なぜなら、自分が弱者というカテゴリーに区分されたらみじめな気持ちになるからです。

そして、弱者という言葉は固定的であることを前提としているように感じられるからです。

でも「弱者」とはそもそも誰のことなのでしょうか?

自分のことを「弱者」であると自覚している方はいますか?

私は裸眼であれば障害年金を受給できるほどの視力です。身体障害者です。

視力弱者とでもいえばいいでしょうか?

知能や体力において「弱者」といわれる人、経済的弱者といわれる人、情報弱者…

万能の人などそうそういないのですから、多くの人がなんらかの「弱者」であると思われます。

書的には、「社会集団の成員でありながら、大多数の他者との比較において、著しく不利な、あるいは不利益な境遇に立たされる者(個人あるいは集団)のこと」「障害者、高齢者、女性、子ども、低所得層、不熟練労働者、零細な農漁民など、社会の中で弱い立場にある人のこと」ですって。

バカにしないでよ!って言いたいです。(山口百恵さん風に言うのがいいです)わからない人スミマセン…

こんなふうにカテゴライズされて、いやな気持ち、みじめな気持ちにならない人っていますか?

弱者という言葉には温かみも厳かさもありません。

あるのは傲慢な押し付けがましさだけです。

私が十数年身を置いていた福祉の世界にも残念ながら弱者救済に驕り、溺れていく人たちが多くいました。

何十年のベテランといえども陥るところは同じです。

どれほどの経験を積んでもこの罠から逃れることは困難です。

弱者救済に驕り溺れる人は弱者の主張・反乱を許すことができず、非常に苦しい思いをします。

自分のプライドを傷つけた弱者、自分に感謝しない弱者を許すことができないのです。

価値がない、たいした存在ではないというふうに扱われることは、弱者とされる人たちであってもなくても嫌なものです。

自分では社会的な有意義なことをしている、立派なことをしている、そう信じて、他者の尊厳を傷つけていることは十分あり得ます。

尊厳は人間に等しく備わっている。

この当たり前のことを忘れてしまうところに弱者救済の罠があるようです。

おまけ

子どもたちに大人気のマンガ「鬼滅の刃」に出てくる上弦の鬼の猗窩座(あかざ)は弱者が大嫌いなのです。

弱いということそのものが許せない心の狭いやつなんですが(そうじゃない鬼だっているんですよ。誰かっていうとね…妹思いの鬼、妓夫太郎(ぎゅうたろう)ですよ)、強くなった鬼殺隊員炭治郎(たんじろう)と対峙して意外なことに気付くのです。最初炭治郎が弱いから嫌いだと思い込んでいたのだけど、強くなってからも相変わらず嫌いなのです。あれ?おかしいぞと思ううち、人間だったころのことを思い出してしまうのです。猗窩座(あかざ)は「誰もが(はじめは)弱い」ということを認められないのです。そして炭治郎は「誰もが弱い」ことを知っていて、さらにどんな人間にも尊厳があるなんて(弱い人間にもですよ)不愉快なことをぺらぺらしゃべるのです。単純強い好き鬼の猗窩座(あかざ)にとっては、天地がひっくり返るようなくそ面白くない状況です。

猗窩座(あかざ)の精神的ピンチ。どうなることでしょう…

まとめ

尊厳あるところに弱者なし!

ついで

尊厳は英語で dignity ディグニティです!

覚えちゃいましょう!

BeBRAVE!