こんにちは。BeBRAVE.Sビーブレイブエスの明正明美(みょうしょうあけみ)です。
こども家庭庁の設置が決まりました。2023年(令和5年)には内閣府の外局としてスタートするようです。
子どもに関する施策は現在、保育園・学童保育が厚労省、子育て支援は内閣府、幼稚園や学校は文科省、その他法務省や経産省が部分的に関わるなど、縦割り行政となっており、これらを解消するために「こども庁」の設置が考案されました。
昨日のニュースで閣議決定されたされたことを知ったのですが、そこで名称の変更のこともわかりました。
当初「こども庁」で進んでいたのが、自民党保守派から、子どもの養育は家庭で母親が責任を持って担うのが当然というような意見が出され、家庭という言葉を入れることを強く要望していたのです。また、公明党も自民党保守派とは異なる考えから「家庭」を入れたいと思っていたようです。立憲民主党も家庭を希望していたようですが、おそらく、なんとなく漠然と、こどもときたら、家庭だろう、ぐらいの気持ちではないかと思うのです、立憲の場合は。特にこれといった理念のある政党ではないので。
自民党の若手議員が今年のはじめに勉強会を始めた時点では「こども家庭庁」という名称だったようです。しかし、虐待を受けた子どもたちや児童養護施設出身の子どもたちから、家庭を外してほしいと要望があり、こどもを真ん中に置く、子ども本来の権利のためにという理念で「こども庁」で進めていたのです。
たしかに、きっかけは子どもたちからの声だったかもしれないけれども、今までの政策の多くは、児童手当の増額など親の負担を軽くするものであり、それはそれで大事なことだけれども、家庭ありきで、世帯主への給付だったり、所得控除だったりで、子どもに支援が届かないという問題もありました。子どもの目線で問題を理解し、ダイレクトにこどもを助ける、こどもも権利を持つ主体である、そういう理念を持ちえたからこそ「こども庁」でいこうとなったのではないのか。
こどもは選挙権を持っておらず、社会を動かす力がない。だからこそ、大人がこどもたちの声になる責任がある、こう考えての「こども庁」ではなかったのか。
親も含めた支援というなら、そんなものは当たり前であり、今までも子どもの支援はすべて親を通してだった。今までと同じなら、あえて新しい部門を立ち上げる必要などないのではないか。
家庭だけでは担えないから社会で担う、だからワンストップの行政機関が必要だったのではないか。
日本の社会福祉政策が専門であるイギリスオックスフォード大学教授のロジャー・グッドマンさんは、日本の家庭重視の福祉政策に斬りこんでいます。
日本の福祉政策は個人よりも家庭をどう支えるかに力点を置いている。
家庭や地域を大切にするという概念に縛られ過ぎている。
家庭を持たず、就職もままならないような人はセーフティーネットからもれてしまう。
特に児童養護施設出身の人は家庭という支えがなく、それゆえ支援が届かない。
日本の福祉システムは、いい地域に住み、いい家庭に恵まれれば、より多くの恩恵を受けられるが、その両方に恵まれない人は恩恵を受けられない。
的確な指摘だと思います。
「こども庁」はグッドマンさんが指摘することにも対応していける可能性があると期待していたのですが、なんだか心もとなくなってきました。
私は30代のころ、児童養護施設で保育士として働いていましたが、「家庭」という言葉は魔法のようでした。「家庭」は「おうち」とも言います。施設の子はおうちの子とは違う、施設の子はかわいそう、家庭での養育がほんとうは一番…
このような考えの下、厚労省はこれまでの方針を大きく変えて、子どもの養育を施設から家庭へと移しました。
たくさんの特別養子縁組が生まれ、里親も多く誕生しました。
でも、当り前ですが、これでめでたしめでたしではないのです。
健全な素晴らしい家庭と機能不全を起こす悪い家庭があるわけではないのです。
どんな家庭も、いつどんなことが起きるかわからないのです。
家庭をアンタッチャブルな素晴らしいものに持ち上げてしまうと、うまくいかない場合に、家庭以外のところに原因を求めることになります。
子どもが悪役にされます。
子どもが家庭の犠牲になるのです。
守るべきは家庭ではなくこどもです。
こども庁がこども家庭庁になった経緯を見ていると、完全に転倒しています。
家庭を万全なもの、家庭とは決して壊れることのない神聖な器であり、こどもはそこで育まれるべきであるというのです。
家庭が機能不全になっても、子どもは守られるべき、どのような家庭であろうとも、どのような親の下に生まれようとも、子どもが社会の宝である限り、子どもは守られなければならない、このような視点が完全に欠落しています。
設置まで1年以上あります。
少しでもよくなるように注意して見ていきたいと思います。