今から考えておく「コロナの後に元に戻ってほしくないこと」

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こんにちは。BeBRAVE.S代表の明正明美(みょうしょうあけみ)です。

毎日報道されるコロナ感染者数。

医療崩壊の危機。

どうしても浮足立ってしまいます。

少し落ち着こう、そう思って春先に出た書籍、イタリアの作家・物理学者・数学者:パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』を読み返しました。

感染症の流行はいずれも医療的な緊急事態である以前に、数学的な緊急事態だ。

何かが成長するとき、増加量は毎日同じだろうと考える傾向が僕らにはある。数学的にいえば、僕たちは常に線形の動きを期待してしまうのだ。この本能的反応は自分でもどうにもならないほどに強い。しかし、現実には、そもそも自然の構造は線形ではない。自然はめまぐるしいほどの激しい増加か、ずっと穏やかな増加のどちらかを好むようにできている。自然は生まれつき、非線形である。感染症の流行も例外ではない。

科学者であれば驚かないような現象が、それ以外の人々を軒並み怖がらせてしまうことがある。感染者数の増加は「爆発的」とされ、本当は予測可能な現象に過ぎないのに、新聞記事のタイトルは「懸念すべき」「劇的な」状況だと謳うようになる。「何が普通か」という基準の歪曲が恐怖を生む。速く増加するのが普通で、そこには謎めいた要素など全く存在しない。どこからどこまで当たり前のことである。

流行の抑止を目指す特別対策の厳しさが緩んだとたん、感染速度は本来の速さを取り戻す。

 

今起きていることです。医療崩壊したイタリアを日本はやや優位な立場で見ていたように思います。ある大臣が、感染者数や死亡者数の少なさを、国民の民度が高いとかどうとか言い、それに対して朝日新聞記者が国民はみんな自分たちの判断でやったんだ、てめぇの手柄にしてんじゃねぇよと反論していましたが、今は双方が方向を見失い、思考停止状態になっています。

パオロ・ジョルダーノは本の最初と最後に同じことを訴えています。

この感染症が僕ら人類の何を明らかにしつつあるのか、それを絶対に見逃したくない。いったん恐怖が過ぎれば、揮発性の意識などみなあっという間に消えてしまうだろう。

今起こっていることは偶発事故でもなければ、単なる災いでもない。それに少しも新しいことじゃない。過去にもあったし、これからも起こる。(私はこの言葉を聞き、風と共に去りぬのレット・バトラーのセリフを思い出しました。南北戦争でこれまでの価値観がひっくり返り、生きるしかばねのようになったアシュレイを蔑み、レットは冷たく強く言い放ちます。世の中がひっくり返ったのはこれが最初でもなけりゃ最後でもない、と。)

コロナの後に復興が始まるだろう。今からよく考えておくべきだ。いったい何に元通りになってほしくないのかを。

僕は忘れたくない。初期の控えめな対策に人々が嘲り笑ったことを。不信は遅れを呼んだ。遅れは犠牲をもたらした。

僕は忘れたくない。今回のパンデミックのそもそもの原因が自然と環境に対する人間の危うい接し方、森林破壊、軽率な消費行動にこそあることを。

復興が始まる前に、今、あえて、元に戻ってほしくないことについて考えておかない限り、必ず元に戻ってしまうだろう。

 

日本では、ステイ・ホームが標語のようになりました。強くはなくとも命令形です。軽く「見に来て」「また来てね」みたいな感じで「家にいてね」と使っていますが命令形です。

イタリア語の「レスティアーモ・イン・カーサ」は、「私たち」を主語としています。(イタリア語では私・私たち・君・君たち・あなた・あなたがた(彼や彼女・彼らや彼女ら)など主語によって動詞はすべて変わる)

そうすることが必要な限り、ずっと家にいよう。

でもパオロが最後の最後に期待したように、まさかの事態に、もう二度と不意をつかれないということは可能なのだろうか。

 

すべてが終わった後、元に戻ってほしくないこと。それは…

考える時間はたっぷりあるのか、それとも…