自分だったかもしれないという気持ち

こんにちは。BeBRAVE.Sビーブレイブエスの明正明美です。

ワーキングマザーのみなさんは児童虐待のニュースに対してどのような思いを抱きますか?

虐待された子どもをかわいそうに思う気持ちは誰もがいっしょだと思います。

親に対してはどんな気持ちを抱きますか?

憤りや憎しみが多いのではないでしょうか。

阻止できなかった行政に対しても憤りを感じる方が多いようです。

私もそうです。

でも一方で、私はいつも「この人(虐待した親など)が起こしたこと、絶対自分は起こさないといえるだろうか」という気持ちになります。

身勝手だ、許せない、処罰されるべき、償うべきだ、こういった感情は、虐待する親は「あちら側の人」で、自分は「こちら側」という無意識の区分けによるものではないかと思います。

この区分けは虐待に限らずなんにでもあります。

そして、自分がその境界を越えたとき、区分けは簡単になくなります。

犯罪行為がわかりやすいです。

犯罪を犯す人と犯さない人がいるのではなく、犯罪を犯した人と犯さなかった人がいるだけです。

だから犯罪を犯す人が誰で、犯さない人が誰かを判別することは不可能です。

誰もが犯罪を犯す可能性があるのです。

区分けなんてないのです。

あると思っているだけ、幻想です。

 

先日見てきた映画「明日の食卓」は、このことを強く実感させるものでした。

同じ年齢、同じ名前の男の子を持つ3人の母親が登場します。

フリーライターの石橋留美子、専業主婦の石橋あすみ、シングルマザーの石橋加奈、息子の名前は3人とも、「イシバシユウ」、小学3年生。

3人には全く接点はなく、別々にストーリーが展開しますが、夫(父親)の無理解や無関心、貧困、介護、いじめなどを背景に、親子のちょっとしたボタンの掛け違いで、3人とも、それぞれの事情のもとに追い詰められていきます。

母子のすれ違いがピークに達したある日、1人の「ユウ」が母親に殺されます。

(ネタバレになるので詳細は省きます)

ひとりの母親は、これは自分の話だと思いました。

ドッペルゲンガーのように、もう一人の自分が事件を起こしたのだと思いました。

会ったこともない「ユウくん」は自分の息子だった。

「ユウくん」のこれからの人生は息子の人生かもしれなかった。

あの人の夫は自分の夫だったかもしれない。

息子を殺してしまった母親は、息子を好きでした。愛していました。

殺意があって殺したのではないのです。

正体不明の真っ黒な何かに、息をするのを忘れるほどの怒りに覆われてしまい、気付いた時には息子の頭を床に強く打ち付けていました。

なぜあんなにイライラしていたのか。自分でもわからないのです。

時間を戻したい。

二度と取り戻せない時間を戻したい。

「ユウ」に会いたい。

でも「ユウ」はもういない。自分が殺してしまったから。

息子を殺した母親は普通の人でした。

仕事を持つ、2人の息子の育児に追われる母親でした。

生活雑誌を読み、子育てブログを読む普通の母親でした。

でも息子を殺してしまいました。

私には彼岸の話だとは思えません。

正体不明の怒りに襲われることは誰もがあります。

5秒待てばよかった。

でも待てなかった。待たなかった。

私は空想の中で娘を窓から放り投げ、壁に頭を打ち付けたことがあります。

現実には起こらないとは言えないのです。

映画館では、どのユウくんが殺されたのか…接点のない3家族の日常が穏やかでありながら綱渡りのような危うさがあり、怖くて、席を立とうかと思いました。

どの「ユウくん」が母親から殺されてしまうのか。

どの「ユウくん」にも生きて大人になってもらいたかったから、見ないで、結末を知らないままでいようか…

そんな衝動にかられました。

 

 

 

実は「イシバシユウくん」は4人います。